循誘校区の歴史と文化遺産(長崎街道編5) 

豊福英二

豊福英二

 長崎街道を柳町から東に向かって行くと東佐賀町へと入っていきます。佐賀城下町が形成された頃は「慶長町」といわれていました。

大慈山長徳禅寺
長徳寺は東佐賀町にある臨済宗南禅寺派の禅宗寺院で、本尊は釈迦牟尼仏です。仁平元年(1151)に菅原道真の子孫の牛島太郎三郎教生が天台宗の寺として創建しました。江戸時代に入り臨済宗の寺院として再興されました。
本堂の右手には鍋島藩2代藩主光茂が寄進した観音堂があり、堂内の如意輪観音菩薩と13体の観音菩薩像は金色に輝き、欄間も色彩豊かな意匠となっています。安産や子供の健やかな成長を願い、一方で巨勢町の人たちは田植えの仏さまとして参詣していました。
(写真左:長徳禅寺  写真右:観音堂)

 

また、境内には芭蕉塚があります。
松尾芭蕉は元禄7年(1694)5月に九州への旅を思い立ち、江戸を出て故郷へ立ち寄り、9月9日に大阪へ着きました。そこで病気になり、10月12日の夕刻に51歳で亡くなりました。辞世の句は8日に詠んだ有名な『旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる』であります。
芭蕉は九州への強い憧れの気持ちを持っていたとされ、門弟達はこの想いを受け継いで芭蕉が来れなかった九州に渡り、芭蕉の句風を広めていきました。こうしたことから九州では句会が盛んに催され、芭蕉塚が建立されたといわれています。
天明・寛政年間の頃に無漏庵菊亮という俳人がおり、芭蕉門下50年に及んで修行し、佐賀の俳句界では中興の祖と呼ばれていました。
寛政5年(1793)3月、芭蕉の百回忌及び冥福を祈念して、長徳寺に高さ1.93メートルの自然石の表面に次の句を刻みました。『馬に寝て残夢月遠し茶の煙』の真筆を埋め、その上に碑を建立しました。当時、肥前の俳人が多く集まり、盛大なる供養が営まれたといわれています。

十三仏様
江戸中期における追善供養のための寄進物です。
本堂の方から山門に向かい、年忌順に並んでいます。
「不動明王 釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩 地蔵菩薩 弥勒菩薩 薬師如来 観音菩薩 勢至菩薩 阿弥陀如来(行方不明) 門閦菩薩 大日如来 虚空蔵菩薩」 

 

牛嶋天満宮
長徳寺を北に行くと牛嶋天満宮があります。祭神は学問の神様として有名な菅原道真です。牛嶋天満宮は仁平元年(1151)、菅原道真の末孫に当たる牛嶋教正が巨勢郷牛島村を領した時に社が創建されたことに始まります。
その後、永正5年(1508)に教正の九代子孫の家泰が社を再興し、国司造営社となったと伝えられています。
「肥前古跡縁記」に、「蓮池町牛の島に宮在りしを 鍋島勝茂公 佐嘉城を築かれるに当り、鬼門に移し祭るべし」とあり、蓮池町牛嶋にあったものを慶長年間の佐嘉城下建設の時に、佐賀城の鬼門となる北東を守護するため佐賀藩初代藩主の鍋島勝茂が現在の位置に移しました。(写真左:牛嶋天満宮  写真右:肥前鳥居・太鼓橋)

  

肥前鳥居は寛永10年(1633)に建造されたもので、境内の入り口にある鳥居の銘には"藤原朝臣勝茂..."とかすかに残っています。
鳥居を潜ると宝暦8年(1758)造立の古い(太鼓橋)があり、これを渡ると一間一戸四脚門、屋根は切妻造本瓦葺の楼門があり、19世紀中頃の建築と推定されています。
その奥に西を正面として拝殿、本殿が建っています。拝殿は平入形式の入母屋造銅板葺で正面に軒唐破風を備えており、19世紀前半の建築と推定されています。本殿は平入形式の三間社流造銅板葺の朱塗り社殿で、17世紀後期の特徴を備えています。
牛嶋天満宮の境内には菅原主従の白太夫神社、海上の安全を祀る金比羅大権現、農業神の稲荷大明神があり、満点恵比須・弁財天・灯篭・狛犬・地神の中央尊を始めとする多くの貴重な石造物があります。
また、佐賀市天然記念物に指定されている樹齢1000年の大楠や佐賀市の保存樹に指定されている樹齢600年の楠があり、この他に太宰府天満宮から分芽したという飛び梅があり、春には見事な花が咲きほころびます。

 

授眼山正教寺
正教寺は浄土真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。慶長年間(1596~1615)に浄念が開基し現在に至っています。
正教寺には鍋島更紗の後継者江頭家の墓があります。また、最後の鍋島更紗制作者といわれる江頭佐八の「九字十字名号」(明治39年(1906)作)等、2幅が現存しています。
(写真左:正教寺  写真右:鍋島更紗)

 

鍋島更紗
更紗とは室町時代後期から江戸時代初期にかけて、南蛮貿易によってインドやジャワ等からもたらされた異国情緒あふれる文様の染め布です。この影響を受けて我が国で制作されたものを「和更紗」といいます。
鍋島更紗は古くから佐賀に伝わる優美な染織品で、工房は白山商店街の西の入り口付近にありました。
慶長年間(1596~1615)に朝鮮出兵からの帰国のとき、鍋島直茂が連れ帰った高麗人九山道清(くやまどうせい)によって伝えられました。道清は後に九山庄左衛門と改名しました。鍋島更紗は佐賀鍋島藩の保護を受けて、諸大名や幕府への献上品として格調高いものでした。
技法は木版ずりと型紙ずりを併用した独特なもので、色染めも精巧を極めていました。文様は動植物を図案化したもの、有職文様風、インド更紗風など多様であり、鍋島藩窯の色鍋島や鍋島緞通の文様にも共通するものがもあります。
鍋島更紗は代々世襲制でありましたが五代目で男子の血統が絶え、知人の江口半兵衛が継承し半兵衛更紗といわれていました。その後、江頭兵右衛門が受け継ぎ、明治期に入ると江頭佐八を最後に後継者は一旦途絶えました。
昭和30年代以降、染織家の鈴田照次氏が廃絶した鍋島更紗の復元に向けて長く研究努力し、「木版摺更紗」としてその成果を発表され、後継者の鈴田滋人氏は人間国宝として広く活躍されていることは皆さんご存知のとおりであります。
更紗資料として「鍋島更紗秘伝書」と「鍋島更紗見本」が残されており、県の重要文化財に指定されています。

 

構口番所跡
長崎街道の構口橋は現在より少し南に架かっていました。構口は名の通り、佐賀の城下町を通る長崎街道の出入口の要衝として置かれていました。通行に際してはまず構口の番所で検問を受ける必要がありました。
この橋の西に向かう町を牛島町といっていましたが、現在は東佐賀町に改められています。また、慶長年間に佐賀城下町が整備されましたので、当時この町のことを「慶長町」とも呼んでいました。
江戸時代初め、佐賀城下が整備された頃にはすでにこの番所も設けられたといわれています。城下の長崎街道を通行する場合にはこの番所を通るようになっていましたが、旅人のなかには規制を避け迂回道を通ったりしていました。天明5年(1785)には防衛上の必要に迫られて、番所での規制強化を図りました。
これにより、西の長崎方面に向かって行く場合は鍵型に迂回して進み、南にある佐賀城を遠ざけるようにして長崎街道を通って行くことになります。
写真左:現構口橋  写真右:旧構口橋発掘状況)

 

昨今、構口公園の整備事業の一環で文化財発掘調査を実施し、旧構口橋が発見されました。
遺構は現在の構口橋の南方約30メートルにあり、東西に架かる橋の西側で土台とみられる石垣が見つかりました。江戸時代(1800年ごろ)の構築と見られ、出土した石垣は北(約6メートル)、東(約7メートル)、南(約5メートル)の3面で高さ約1~2メートル、石垣は4~5段あります。時代が古い石もあり、修復を繰り返して石材が再利用されているそうです。
鍋島報效会が所蔵する1785年の絵図を見ると、橋の延長線上に「番所」が見え、番所の特定が可能となりました。今後、長崎街道の佐賀城下東の入口の公園として整備される予定です。 
           以上(豊福 英二 記)

             -続 くー