循誘校区の歴史と文化遺産(材木町・朝日町編)

豊福英二

豊福英二

材木町は裏十軒堀川と紺屋川の間に立地する南北に長い町並みです。江戸時代、材木町は職人の町として賑わっていました。材木町の通りには中島吉平商店や勝木慶造商店等の土蔵や漆喰白壁の町屋建築を見ることができます。貫通道路を抜けて北に向かって行くと野中烏犀園があり、その先の柳町には、中原家、南里邸、南里家、御厨家、江頭家の町屋が並んでいます。
これらは長崎街道の柳町と交差し南北を走る街並みとして、貴重なる歴史的景観を保っています。

中島吉平商店
材木町の通りの中程にある中島吉平商店は、19世紀前期の建築と推定される木造2階建の切妻土蔵造り漆喰仕上げの町家です。
昔から「中島ゲタ屋」として親しまれており、玄関を入ると履物問屋と書かれた数個の看板が目を引き、往時の繁栄振りを垣間見ることができます。土間及び座敷部分の意匠が古く、屋敷の南北両側に立地する土蔵がこの建物の特長でもあり、主屋からの出入りができる造りとなっています。現在も店舗併用住宅として使用されています。

勝木慶造商店
中島吉平商店より少し南に行くと勝木慶造商店があります。
材木町中心部の角地に在り、18世紀中期の建築と推定されています。建物は木造切妻造りの漆喰壁2階建の町屋で、東に向かって奥長く立地しています。屋根には千鳥破風を載せ、江戸時代の趣きを持つ存在感のある佇まいを見せています。当時、足軽の池田幸太郎が穀物類、荒物の仲買を営んでいたと竈帳にあります。
現在も店舗併用住宅として使われています。

勝木慶造商店の前の道を南に向かうと武藤辰平誕生地があります。案内板に武藤家の漆喰壁の2階建町屋建築(昭和2年撮影)を見ることができ、当時の材木町の繁栄と景観を想像することができます。

 

武藤辰平は明治27年(1894)に武藤定市(質屋を営む)の長男として誕生しました。佐中時代には森三美に教えを受け、大正2年(1913)の佐賀美術協会設立に参画、東京美術学校時代には数々の文展に入選しました。昭和6年(1931)の37歳時、まだ西欧は程遠いこの時代にフランスに留学し、独特の色彩感覚を養いました。帰国後は佐賀県展の審査員等を務める一方で佐賀での絵画制作に励み、花や果物等の静物画や雄大な阿蘇山の風景を描きました。昭和40年(1965)、71歳で亡くなり、光彩あふれる画風から「色彩の画家」と称されています。

双体恵比須
佐賀市内には800体を超す恵比須さんが祀られており、その数は日本一です。材木町を流れる裏十軒堀川に横目橋があり、その東側に石の祠に2体の恵比須さんを彫る双体恵比須が安座しておられます。
元禄3年(1690)奉祀のもので、循誘校区内で一番古い恵比須さんとして有名です。
夫婦恵比須ともいわれ、一体は杓を持ち、もう一体は扇を持つ家庭円満の恵比須さんです。

福聚山威徳院(朝日町・循誘校区)
威徳院は天正年間(1573~1592)に龍造寺家の祈願寺として建立されました。曹洞宗の寺院で、宗龍寺の末寺でした。開山は恵舜和尚です。開山から数代が過ぎ、中興の芳舜より以降は住職が途絶えましたが、宗龍寺10代の了翁和尚によって再び開山されました。5代まで続いたものの再び途絶え、明治時代以降には真言宗の住職が入り「我覚寺」と名を変えました。歴史ある威徳院の名称を引き継ぎ、正式名を「福寿山威徳院我覚寺」としました。
因みに 入口の石柱門には昭和13年(1938)の刻印がなされています。本堂左側には吉祥天や摩利支天・足手荒神・十三仏の石造仏及び、天文10年(1541)奉祀の循誘校区内で一番古い竿状の六地蔵菩薩像があります。衆生は生前の行為の善し悪しにより死後、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の境涯を輪廻転生するといわれています。この六道において衆生を救済するという日光、除蓋障、持地、宝印、宝珠、檀陀の6種の地蔵菩薩が配されています。

    

左写真:威徳院本堂  右写真:六地蔵菩

威徳院には龍造寺胤和の墓があったと伝えられていますが、墓の所在を確認するまでに至っておりません。龍造寺胤和は第15代当主龍造寺家和の子として生まれました。父の隠居により早くから家督を継いで第16代当主となりましたが、早世しました。このため、父が再び当主となり、父の死後は弟の胤久が第17代当主になりました。

                                              

                                  以 上 豊福 英二 記

ーつながるさがし・循誘公民館ー