循誘校区の歴史と文化遺産(材木町・紺屋町・東田代編)

豊福英二

豊福英二

今回は材木町とその東に位置する紺屋町及びその東に位置する東田代の歴史と文化財を歩いて行きます。
日天社(材木町)
日天社の入口にある宝暦6年(1756)の刻がある明神鳥居を潜っていくと、入母屋造りの拝殿と流造の本殿があります。この社殿の前には享和3年(1803)の印を刻む阿吽の狛犬が鎮座し守護しています。又、境内右奥には大悲王像、庚申塔等の石仏石塔物が納められています。
神社由緒に「常州の真言修験者玄心という沙門、常々日天を信仰仕り、天正元年(1573)に当たる正月元日より三月五日まで祈願仕り、日々、日待ち仕りせし。飯後休んでいるところ、夢中に童子来て上人に告白、我を念ぜよと告げた。水を上げんと外に出見れば内蔵と申すもの家を作るべき材木を置きたるところに仏1体あり。これこそ夢中の日天と頂戴致し、内蔵はその用木で日天社を作り、この所を材木町と名付けたり」とあります。
宝殿・拝殿・敷地等壱畝七歩は除地の扱いでした。
日天社は「テントウサン、お天道さん」と呼ばれ、ご祭神は天照皇大神で火災防御の神として信仰されてきました。上記のとおり、従来は大日如来を祀っていましたが、廃仏毀釈後に神仏習合の名残りから、神社としての祭神は天照皇大神を祀ったものと思われます。
また、日天社は南光院(廃寺)の抱宮でもありました。南光院はもともと愛宕寺(高木町)と呼ばれていましたが、新堀端の愛宕寺と相紛・御用間違等が相成ったため、南光院と名替えしました。愛宕社を勧請し、火災転徐の祈願をしていました。

天啓山安楽寺(紺屋町)
安楽寺は慶長年間(1596~1614)の創立と伝えられる浄土真宗本願寺派の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。太宰府安楽寺の吉岡某なる人物が灯明を持参したと伝えられています。
太宰府安楽寺は佐嘉庄の一部に寺領を持っていたといわれ、太宰府安楽寺と当寺の創建との関わりを伝えています。
墓地には、森鴎外の2番目の妻・志げが荒木家の墓に葬られています。(父の荒木博臣は佐賀出身。明治維新のとき、官軍の一人として活躍した人物)


金武良哲
安楽寺には金武良哲の墓があります。良哲は文化8年(1811)生まれの元須古領の家臣で、佐賀藩士となりました。江戸時代から明治時代にかけての蘭学者で、明治17年(1884)に74歳で亡くなりました。
良哲は好生館で医学教導を務め、精煉方おいては研究に打ち込んだ佐賀藩屈指の蘭学者でもありました。
天保元年(1830)頃、佐賀蘭学の始祖島本良順のもとで、医学と蘭学を学びました。その後、江戸に遊学し、天保10年(1839)には伊東玄朴の象先堂に入門し、当時の最先端の学問を修めました
帰藩後、蘭方医として開業しました。その後、藩に出仕し、安政5年(1858)に藩医学校が好生館と改称されると、良哲は指南方となり、慶応3年(1867)には教導方となりました。豊富な才能は物理、数学など多方面で発揮され、特に語学はオランダ語特を始め、ラテン語、ロシア語、英語などにも深い知識を持ち、多くの訳著書を残しました。

祥雲山瑞龍寺 
瑞龍寺臨済宗南禅寺派の寺院で、御本尊は観世音菩薩(准胝観音)です。元亀元年(1570)に琳翁琢が開山しました。当寺は名のとおり龍造寺家の流れを汲む寺院でもあります。

田代陣基
ここに葉隠聞書の筆録者である田代陣基の墓があります。 田代陣基は佐賀藩士田代小左衛門宗澄の子として、延宝6年(1678)に佐賀に生まれました。 元禄9年(1696)19歳のときから、3代藩主鍋島綱茂・4代吉茂のもとで祐筆役として仕えましたが、宝永6年(1709)に御役御免となりました。
山本常朝との出会いは、その翌宝永7年(1710)のことで、以来7年間の歳月を経て『葉隠』を筆録・完成させました。 その後享保16年(1731)の54歳のとき、5代藩主の宗茂の時代に再び祐筆役になりました。寛延元年(1748)、71歳で死亡し、佐賀市田代の龍庵に葬られました。 長らく墓所は不明でしたが、昭和13年(1938)、無縁仏石の調査中に瑞龍庵にて発見されました。自然石の墓碑には、名前ではなく俳号である「松盟軒期酔之墓」と刻まれています。 この発見を記念して、有志により記念碑が墓の傍に建てられました。 その碑文には「田代陳基先生葉隠纂述記念之碑」と刻まれています。
田代陣基は、口述者山本常朝同様『葉隠』を語るときには必要不可欠の人物であり、山本常朝の師であった湛然和尚、石田一鼎と併せて「葉隠の四哲」と呼ばれています。

 また、瑞龍庵に入った左側に安住勘助の墓があります。
安住勘助は「道古」という名で知られる小城藩士であります。勘助の父清右衛門は田36町の禄高60石。小城藩祖元茂に仕え、池上村に住居を構えていました。
「直能公御年譜」附録や伝承によると、勘助は小城2代藩主直能のとき、水利に乏しい芦刈方面に川上川の水を引き入れようと考えて調査し、藩主直能に進言し、現在の官人橋の下流約50mの所より分水し、川上地区を横断して、三日月町、牛津町を経て芦刈町に及ぶ約12kmの灌漑用の水路を作りました。これが芦刈水道です。
この芦刈水道は建設については、寛永元年(1624)に成富兵庫茂安が建設したという説もあります。
勘助は貞享元年(1684)6月9日に死去しました。

      以 上 豊 福 英 二 記   ー続くー

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