今から870年ほど前、菅原道真の子孫である右近民部太夫良遠が、蛎久天満宮の社職を命じられた。その後数代を経て刑部少輔の代となり、鍋島直茂に重く用いられ佐賀市街建設にあたり建設頭人を命じられた。蛎久、岸川、植木の町家を佐賀に移転し八戸町。六座町から白山町、呉服町、東は高木町、慶長町に至る佐賀市街をつくりあげた。自身も町人となり、伊勢町に旅人宿を経営しながら、内密に目付け役を仰せ付けられた。佐賀市街建設の功業をとげ元和元年7月に亡くなり、そのお墓は蛎久の栖竜院にある。(蛎久【栖竜院】)
今から870年ほど前、菅原道真の子孫である右近民部太夫良遠が、蛎久天満宮の社職を命じられた。その後数代を経て刑部少輔の代となり、鍋島直茂に重く用いられ佐賀市街建設にあたり建設頭人を命じられた。蛎久、岸川、植木の町家を佐賀に移転し八戸町。六座町から白山町、呉服町、東は高木町、慶長町に至る佐賀市街をつくりあげた。自身も町人となり、伊勢町に旅人宿を経営しながら、内密に目付け役を仰せ付けられた。佐賀市街建設の功業をとげ元和元年7月に亡くなり、そのお墓は蛎久の栖竜院にある。(蛎久【栖竜院】)