循誘校区の歴史と文化遺産(長崎街道編4) 

豊福英二

豊福英二

長崎街道の八坂神社横の路地を南に向かって行くと肥前通仙亭があります。

肥前通仙亭と高遊外売茶翁馬責馬場)
高遊外売茶翁の研究は平成16年に有志の呼びかけにより始まりました。この頃、情報の発信地や建物をどうするかといった新聞記事を見た記憶があります。
平成18年にはNPO法人高遊外売茶翁顕彰会を立ち上げられました。そして平成22年に発足した高遊外売茶翁佐賀地域協議会が運営する佐賀地場産品交流会館「肥前通仙亭」は、日本煎茶道の祖と尊敬された高遊外売茶翁を顕彰し発信する場として開館しました
高遊外売茶翁は京都で知られていても、10数年前の佐賀においては無名で、ほとんど知る人はいませんでした。ごく最近になり、地元佐賀でも大いに知られる人となり、そして郷土史に歴然と名を残す偉人となりました。
これはNPO法人高遊外売茶翁顕彰会及び高遊外売茶翁佐賀地域協議会を率いる川本喜美子会長を中心とする関係者皆様の絶大なるご苦労によるものが大きく、地域社会におけるその貢献に対してただ頭の下がる思いで一杯であります。
高遊外売茶翁の生涯「売茶翁偈語」の売茶翁伝に記されています。高遊外売茶翁は延宝3年(1675)、佐賀市蓮池町の西名道畹に蓮池藩医柴山杢之進常名の三男として生まれ、幼名を柴山菊泉といいました。
11歳のとき、龍津寺の化霖道龍和尚の門に入りました。蓮池町に向かう県道20号線に蓮池信号があり、その手前にある東の巨勢バス停辺りから北に入って行くと龍津寺があります。六地蔵と大日如来坐像が私たちをやさしく迎えてくれます。
龍津寺は隠元が開いた黄檗宗の寺院で、藩池藩二代藩主直之の庇護を受けて、京都の萬福寺独湛の弟子化霖が開山しました。
売茶翁は月海元昭と言う名僧となり、その後上洛して宇治の萬福寺に入り、修行の旅に出ては各地の名僧に学び、筑前の雷山では断食苦行等をして龍津寺に帰りました。
龍津寺では14年間化霖に仕えることになります。化霖亡き後は法弟の大潮元皓に継がせて寺を出ました。
その頃長崎で中国人の煎茶を知り、これを習得し、茶の湯も習得しました。56歳のときに京都に上り、念願の煎茶売茶の道に入りました。享保20年(1735)の61歳のとき、京都東山に「通仙亭」という茶亭を構えました。当時、売茶翁は東福寺周辺や三十三間堂の門前などで茶席を行い、「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず。」 を掲げ、人は集まり、その名声は遠くまで広がりました。 
この言葉は売茶翁の個性なり、生き方をよく表していると思います。その後は門を閉じ、永享元年(1744)に高を姓とし、遊外を号とし、宝暦13(1763)、89歳の生涯を閉じました。
京都の萬福寺には売茶堂があり、翁の木像を祀っています。江戸時代の天才画家伊藤若冲始め多くの画家は売茶翁像を描いており、翁の人となりを偲ばさせてくれます。
写真左:肥前通仙亭  写真右:売茶翁顕彰

          

南里邸(柳 町)
南里邸は、今は亡き南里徳平さんが当時の景観を残したいという強い意思をお持ちになり、老朽化が進んでいた蔵造り町屋を修復されたものであります。現在は南里早智子さんが管理されています。
江戸時代中期より長崎街道に西面して建つ間口6間弱の大型の町家で、佐賀市内最古の建造物となっています。屋根は切妻の鈎屋(かぎや)造り、表の棟上の左に裏の大屋根の妻を見ることができます。表は中2階建ての造りとなっており、また、裏は2階に座敷を持つ2階建てとなっています。
もともとは棟の低い鈎屋造りで、本瓦葺きの建物であったものと思われます。現在は表の棟と裏の大屋根から下ろされた下屋のみが本瓦葺きとなっています。
古戸を引いて家内に入っていくと基礎部に赤石を見ることができ、右手に三和土(たたき)の土間で古き時代を再現し、居室は座敷を2部屋並べる配置となっています。
奥座敷は10畳で長押(なげし)を回し、欄間を嵌(は)め、奥行きの浅い床の間を構えています。柱には庇(ひさし)を支える持ち送りが残されており、すり上げ蔀戸(しとみど)の溝も残っています。
記録がなく建設年代は明確ではありませんが、内法高が周辺の町家と比して低くなっており、18世紀前期と推定されています。
「竈帳」に足軽身分の中嶋彦右衛門が居住し、綿太物(絹織物に対していう)、唐物座札(輸入品の呉服類や雑貨の専売権を与えられた商人)を商っていると記されています。
材木町から柳町を南北に走る道路(細い路地)に沿って多くの歴史的建造物が残っており、この周辺一帯の中核をになう重要な建造物となっています(佐賀市景観重要建造物)
(写真下:南里亭)

     

野中烏犀圓材木町)
野中烏犀圓は寛永3年(1626)に初代源兵衛が正薬業として創立しました。寛政8年(1796)、佐賀八代藩主鍋島治茂は上村春庵・久保三圭・西岡俊益の藩医に練り薬の「烏犀圓」を調合させて、従来よりこの佐賀の地で薬種の商いをしていた野中忠兵衛にその処方を許可し、野中家は当寺の屋号「松養軒」を名乗り、独占的に製薬販売をしていました。これが野中烏犀圓の始まりとなります。
担当の鍋島安房が調合のときは施薬方より立ち会い、薬品の善悪・分量等を吟味し、自宅で処方し、立て看板を出して、販路を広げていきました。現存する烏犀圓建物はこの時に建築され、大型町屋住宅として今に伝えられています。
外観は正面の千鳥風破風の屋根や漆喰白壁及び、江戸期の看板が目に付きます。また、店舗の部分と、冷善楼」といわれる奥の座敷が古くて、往時を偲ばせています。
江戸時代商家の趣きが強く残っており、国の登録有形文化財として歴史的景観を保っています。
野中烏犀圓には医学書や薬学書等が数多く残されており、当時の研究資料として使用されています。また、その蔵書の中から「解体新書」の初版本が発見されました。
解体新書は、ドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの解剖書のオランダ語訳本「ターヘル・アナトミア」を江戸時代の杉田玄白や前野良沢等によって翻訳され、安永3年(1774)に刊行されたものです。
人体の解剖部分ごとにきめ細かく描かれており、私も自らの手と目で拝見させて頂きました。目にするに十分なる価値あるもので、非常に貴重な資料となっています。
野中元右衛門
野中元右衛門は6代源兵衛の娘婿久右衛門の長男として文化 9 年(1812)に誕生しました。一時家業を継ぐも、その後長崎に向かい、海外交易に従事し、有田焼の振興や嬉野茶の販路に努めました。慶応3年(1867)、佐賀藩使節団員としてパリ万国博覧会に赴きましたが、パリの地にて病死し、帰国叶わぬ人となりました。
善定寺(市内精町)に元右衛門を祀る大きな記念碑が建っています。
(写真下左:野中烏犀圓  写真下右:解体新書)

                

 

佐賀の南蛮寺(ドミニコ会教会)(柳 町)
南蛮寺は長徳寺の西側に東西に長く広がっていたといわれていますが、今はその面影を見ることは出来ません。
南蛮寺は、ドミニコ会のアロンソ・デ・メーナ神父が慶長11年(1606)に佐賀領内に教会を建てることを許可し、慶長13年にドミニコ会宣教師等によって建てられました。
鍋島勝茂はこの申立を受けたとき、教会を建てる前に閑室元佶と呼ばれる高僧に相談するように持ち掛けました。鍋島勝茂は関ケ原の戦いにおいて西軍に付き、改易の危機を迎えることになりますが、小城の円光寺生まれであり、徳川家康に重用された閑室元佶に頼った経緯があり、鍋島家に対しても大きな影響力を持っていました。
結局、閑室元佶の協力があり教会を設立することができましたが、この閑室元佶の寛大さにデ・メーナ神父は非常に驚いて感謝したといわれています。なにしろ当時はキリスト教に対して厳しい目で見られていたため、教会が設立出来るとは思ってもいませんでした。
江戸幕府は、慶長17年(1612)に第1回のキリシタン禁教令を出し、続いて慶長19年にも厳しい禁教令を出して、厳しく取り締まりました。幕府の度重なる禁教の命に従い、慶長18年(1613)に佐賀藩も教会の神父を追放することになり、佐賀での布教活動は5年ほどで終わりました。

            ー続 くー         以 上

豊福 英二 記

ーつながるさがし・循誘公民館ー