鍋島直大と百武兼行 〜ふたりが見た明治〜 開催いたしました
9月16日(火)、佐賀県立佐賀城本丸歴史館 学芸員 秋山沙也子さんをお招きし、最後の佐賀藩主として知られる鍋島直大と側近の百武兼行についてお話いただきました。
明治という新しい時代に直面した時に、二人がどのような人生の選択をしたのか?
それはどのような時代的背景によるものなのか?
といった観点からはじまったこの講座。まるでドラマのように話が展開していきました。
佐賀藩10代藩主鍋島直正の長男として生まれた直大とその御相手役として公私をともにしてきた兼行。
直大は、父直正の念願であった、イギリス留学へ。そして兼行は同行し、共にオックスフォードで学びます。兼行はそこで油絵を習い始めます。
直大の留学が終わり、帰国するはずだった兼行に、直大は1年間の休暇と年金70円を支給します。(当時としては、異例の待遇。)
兼行が急速に画技を上げているころ、直大は外務省御用掛となり日本を来訪する賓客を接待し、「その身のこなしたるや、全く板についていて、大名としては珍しいことだが、粋である。」と、評されています。
兼行は一旦帰国しますが、直大が駐イタリア特命全権公使を拝命すると、イタリアへ同行することになります。
イタリアで、直大は王室との友好関係を築き、勲章を贈られます。また、不平等条約改正のために兼行と共に奮闘します。また、兼行は多忙な公務の合間に洋画を学んでいきます。その様は、「画を専門にやる者も及ばない位であった。」と言われています。
帰国後、それぞれの道へ進みます。直大は元老院議官兼式部頭、兼行は農商務権大書記官に任じられます。しかしながら、兼行は過労で胸を病み、42歳で亡くなります。直大は鍋島侯爵として宮中の重要な祭祀を取り仕切るなど明治政府の顔となって活躍します。
若くして亡くなった兼行ですが、その影響は後輩へと受け継がれて行きました。
最後に、《鍋島直大の陰に百武兼行あり、百武兼行の陰に鍋島直大あり。そして近代日本の陰に鍋島と百武あり》互いを尊重し、支え合いながら「明治」という時代を切り拓いた二人であったということをぜひ知ってほしいと、講師の秋山さんは述べられました。
講師の秋山さん