川上の歴史「健福寺」

川上公民館

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健福寺は、712年ごろ、行基という僧が元真手山に建てたといわれています。当時は七堂伽藍が立ち並び真手千坊といわれたと伝えられています。戦国時代の1570(元亀元)年に、大友勢がこの地に攻め入り、その時に戦火にあいました。また、大洪水にあい寺のある地域も次第に荒廃していきました。江戸時代に入り、実相院の僧の尊純が今の場所に健福寺を再興しました。寺の敷地の中にある銅鐘は鎌倉時代初期につくられたものです。この鐘は、国の重要文化財に指定されています。寺の宝であるこの鐘は、佐賀県の中で最も古いお寺の鐘です。そしてかつての寺の姿を知る唯一の資料です。鐘は本来、僧に集合を知らせる合図に鳴らしたものでしたが、後に時刻を知らせることに用いたようです。この鐘には鎌倉時代初めの銘文とそのときの関係者の名前が刻まれています。鎌倉時代につくられた他の鐘と比較するとやや小さ く、総髙83.8㎝、鐘身髙68㎝、口径47.3㎝です。 また、時代は変わって佐賀藩の和歌を集大成して、全国にその名を知られるようになった「佐賀の歌仙」今泉蠏守(1818~1883)の菩提寺である健福寺に歌碑が紹介されています。 「書家」は中林梧竹、「歌人」は今泉蠏守と称されていました。  

「渋柿のうまくなる世と待つほとに身は老いにけり木のもとにして」
「梅のやま月たちのぼれ河上のやなせに落つる鮎の数見む」

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