歴史探訪会《南里村の歴史》(第2回目)

現地に学ぶ≪西川副歴史探訪≫(第2回目)

南里村の歴史

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八田江の上流、東部に位置する。南里の名は、古代条里制の佐賀郡最南端の「里」という意味と考えられ、中世には河副南荘に属し、正応元年(1288)の北条為時の寺領寄進状(高城寺文書)には、この地域の南方全面が干潟荒野地であることが分かる。

貞和2年(1346613日付の南里有家契状によると「河副庄三分一方内南里新々田事」とあり、南里の土豪南里源次郎が干潟を開発し年貢を寺に収めることを契約しており、鎌倉時代末期には南里地域は高城寺(現大和町)の寺領であった。

弘化3年(1846)南里忠左衛門が差し出した系図に源兵衛有家が将軍頼朝公により御紋書を賜り、川副の庄に下向、南里村に住み、多聞院を建立、多聞天を安置し氏を南里と、号すとある。

南里が東西に分かれたのは、貞享年間(16841688)の郷村帳にみられ、その後明治11年(1878)には東南里、西南里、坂井、野々古賀となり、明治22年(1889)の町村制実施の時に「大字南里」として西川副村の一大字になっている。

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