多 聞 院

多聞院

鎌倉時代初めまで、干潟荒野として広がっていた南里の南面一帯は、元久3年(1205年)松浦党の一派を称する源有宗の入植によって開拓がはじめられたといわれています。しかし、有明海をひかえた低湿地の開墾は容易ではなく、南北朝時代の貞和2年(1346年)ようやく一段落がつき、当時の荘園領主であった春日の高城寺へ年貢米納付の約定を送っています。

 南里開拓の先鞭をつけたこの松浦党の一派は代々南里氏を名のり、東南里の多聞院に隣接して館を構えました。その後、一族は竜造寺、さらには鍋島氏の有力家臣として戦国の世を生き、近世にいたるまで集落内で重きをなしていました。又、一族は小城藩士としても抱えられ活躍しました。

 南里氏の末裔は大正時代頃まで西南里に居住し、西川副村長をつとめた南里與吉氏や、その子息で判事となった南里猷一氏が地元ではよく知られていました。


図1南里多聞院.jpg