第2回新栄さが学講座は 「はがくれこぼれ話 〜求め続けた人の心のあり方〜」というテーマで藩政史研究家の大園隆二郎さんにお話していただきました。
佐賀藩出身の西久保弘道(福島県知事・警視総監・東京市長など歴任)は、大隈重信の生涯を評して、「終始一貫はがくれの教えに基づき活動したように思われた。」と述べています。大隈は少しも自分というものを顧みず、いやしくも先見の明ありと信じることなら一日も早くこれを行うに勉めたといいます。すなわち、一身の利害ではなく日本全体のことを考えて行動したのです。
また、次のような話が残されています。
「1600年代後半ごろの話と思われるが、長崎市中の火災が起こって、民屋がおびただしく被災し、人々は飢えた。長崎聞役(佐賀藩の長崎出張所長)山村十左衛門は、「一存にて」つまり自分の判断のみで、佐賀藩の米蔵を開いて長崎市中の窮民を救った。藩の許可を得ず米を配ったのである。大罪である。山村は罪を覚悟したであろう。しかし藩は却ってこれを賞し、二十石を加増した。(『葉隠11−1295』)
藩法を破ったのだから現在で言えばコンプライアンス違反である。しかしそもそも何のためのコンプライアンスかという民政の原点に立てば、この判断は正しかった。と大園先生は話されます。
「武士道と云うは死ぬことと見つけたり。」という一文がはがくれの象徴のように思われていますが、"仕事に命を込めよ"という意味であり、人として正しい判断をすべきだということです。
江戸時代には共同体としての意識が強固であり、自分を守ることよりも全体のことを考えて行動したのでした。
はがくれに出てくる話はどれも人間味あふれる話ばかりです。それは日本人としての共通感覚が生きていた時代だからではないでしょうか。戦後は個人主義が台頭してきており、それが先人たちが残してくれたよき日本社会の根幹をゆるがしているような気がします。
はがくれを理解する上では、「共同体」という認識が必要だと大園先生は強調されています。今一度はがくれの精神に立ち返ることも、今の日本社会にとって必要なことかもしれません。
大園隆二郎さん