循誘校区の歴史と文化遺産1(長崎街道編1) 

豊福英二

豊福英二

循誘校区には素晴らしい歴史と文化遺産があります。今回は循誘校区が誇りとする長崎街道、街道の校区西の入口にあたる願正寺、光明寺(呉服元町)等から述べていきたいと思います。
長崎街道
長崎街道(脇往還)は、小倉の常盤橋を始点として、長崎市に至る までの57里(223.8km)の道程で、25の宿場が置かれていました。江戸時代の幹線道路は五街道・八脇街道で構成され、長崎街道は山陽道に直結し、大阪・京都・江戸へと繋がる重要な道路であり、貿易港長崎に通じる基幹道路でもありました。歴代の長崎奉行、幕末の志士が通り、オランダ商館長及び商館員のケンペル(1690〜1692滞在)やシーボルト(1823〜1828・1859〜1862滞在)もこの街道を通って江戸参府を行いました。長崎から齎された海外の珍しい文物・文化とともに、砂糖もこの長崎街道を通して伝わりました。(シュガーロード)

天正年間(1573~1591)の終わり頃、鍋島直茂は蛎久の富商、右近刑部・中元寺新右衛門・団良円を町人頭に任じ、嘉城下の町造りを始めました。佐嘉城下の長崎街道は構口から高橋までの6㎞の距離に亘り、循誘校区では牛島町(現東佐賀町)・柳町・蓮池町(現柳町)・呉服町及び元町(現呉服元町)を通っています。
因みに、江戸時代の始め頃はまだ思案橋が無かったので【寛永3年(1626)時点、町図に無い】、牛島町の途中から北に入り、高木町を経由して西(長崎方面)に向かっていました。

「旧古賀銀行より柳町を望む」         

寛政元年(1789)の幕府巡見使、文化9年(1812)に測量のため佐賀に来た伊能忠敬は柳町や蓮池町を宿泊所としました。一方、一般大衆が泊まる旅籠は伊勢屋町・本庄末広・柳町に制限され、柳町は旅籠を利用する町人が行き来し、商人の町として栄えました。また使者や飛脚等、公の仕事をする人々は構口番所等でその目的等を十分にチェックされ、案内者が使者屋(八幡小路)という宿泊所まで同行していました。
 「長崎街道、籠を担ぐ人」

佐嘉宿(長崎街道)を往来した人々は佐賀の景色をどの様に見た!!
長崎街道は、武士・商人・外国人・学者等多くの人が佐賀城下を往来し、いろんな角度から見た記録が残されています。以下その一部をご紹介致します。
ケンペル「江戸参府紀行」(オランダ商館員ドイツ人医師)、元禄4年(1691)
「嘉瀬刑場の近くを通過する際に、刑死者8名の首が晒されていたのを見た」と記述。「肥前国の城下町で城主松平肥前守がここの大きな城に住んでいる。町そのものは非常に大きく、また人口も多く、長い地域にわたっている。(略)幅広く、規則正しく東や南に向かってまっすぐ通る町筋を横切って、運河や川が流れ、それを利用して人々は有明湾まで行くことができる」
象志」享保14年(1729)
八代将軍吉宗に献上された象が長崎街道を通っており、象についての情報が詳しく紹介されている。
古川古松軒(こしょうけん)「西遊雑記(地理学者・蘭医)、 天明3年(1782)
龍造寺隆信の居城有りし城にて、ひら城ながら要害悪しからず見ゆ。...市中18町6千余軒の地と云、草ぶきの小家も交りてみ苦し...
吉田重房「筑紫紀行(尾張商人)、享和2年(1802)
佐賀は松平肥前守殿36万石御城下なり。入口に惣門見附番所あり。町いと長し、所々草葺の家交りて見ゆ、中にも白山町というあたり家居よろし、御城は通り筋よりは見えず...
菱屋平七「筑紫紀行(尾張商人)、享和2年(1802)
「此国の町屋に、村々に道の辻ごとに石のえびすをおけり」。この頃すでに相当数の恵比須像が辻々に存在していたことがわかる。
シーボルト「江戸参府紀行(ドイツ人医師)、文政9年(1826)
町を通るわれわれの行列に見物人がいっぱい押し寄せて来たが、その中には2本差しの人が大勢いた。とにかく秩序は整然としていて十字路には藁縄を張って通行止め、その後には好奇心をもった人々が幾重にも人垣を作っていた。
高木善助「薩陽往返紀事](大阪商人)、文政12年(1829)
是より2丁計りの間。しら山という城下中第一の町並みなり。其外は街並みは藁葺き多く綺麗にはなし。
吉田松陰「西遊日記」(長州藩士)、嘉永3年(1850)
嘉永2~3年(1849~50)に九州を旅する。松陰は神埼宿と同じく嘉永3年9月2日に通過、 「...佐嘉に至る。...往還の童子、多くは書を挟(わきばさ)み袴を着けて過ぐ、実に文武兼備の邦とみゆ。...肥前人は剛直にして精神凝定(ぎょうてい)す。」
川路聖謨(かわじとしあきら) 「長崎日記」(幕府勘定奉行)、嘉永6年(1853)
嘉永6年(1853)6月、アメリカのペリー来航に驚いた幕府は、8月品川砲台の備砲100門を佐賀に注文してきた。佐賀では新たに公儀方の多布施反射炉を築造した。同年10月に来佐し見学した幕府勘定奉行川路聖謨は大規模な設備に驚愕した。長崎日記に「いやはや大造なる仕かけなり。反射炉というはタタラを用いずして、一度にクズ銕をふきて、鋳物ながら銕を銅の如く柔らかにするを以て、大銃をつくるなり。ここにて水車を以て大銃の穴を明け、或いは大銃を切り、或いは仕かけにて一万貫目を有るものを、僅か三人にてあげおろしを自由にするなり。」(「長崎日記」安政元年1月22日)と、反射炉で火を噴いていた偉容に驚いている。     
 「長崎街道、馬に乗る人」

河井継之助「塵壷」(長岡藩士)、安政6年(1859)
鍋島の先祖をまつる「日法社(松原神社)」あり。これは誇りしも尤もなり。鳥居の大なるは日本一と言いける。なるほど未だ見ざるところ、唐金の鳥居、また大なり。随分綺麗な社なり。使者館の前を通り町へ出る。城は町の西南にあたる。家中・町屋の家作、綺麗なり。唐物店等も多くあり、少し寄りて、兼て聞く「反射炉」を見る。尤も内へ入るを禁ず。番所あり、それへ行き、頼みければ、番の足軽言う「その手続きにて、御修行のためとあるならば、御覧出来るけれども、私には一切成らず、御気の毒」と断りける。

願正寺
宝海山願正寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、慶長5年(1600)に初代藩主鍋島勝茂が創建しました。本尊は阿弥陀如来で、開基は熊谷寿閑です。当初は「龍造寺道場」と呼ばれ、慶長12年に准如上人より「願正寺」の寺号を賜りました。境内に入ると、元禄15年(1702)に建立された入母屋造り本瓦葺の本堂が威厳を保ち堂々と建っています。
関ケ原の戦いで鍋島勝茂は西軍豊臣方に属し、伏見城、伊勢の阿濃津城を攻めている途中に、東軍徳川方の勝利となりました。この結果、鍋島勝茂は改易の危機を迎えることになりますが、小城の出身で徳川家康に重用された閑室元佶(かんしつげんきつ)に頼り、徳川家康に陳謝し、柳川の立花宗茂を攻めることによって名誉は挽回されました。鍋島家では閑室元佶のために三岳寺(小城市)を創建しました。また、西本願寺の准如上人も関ケ原役の時に鍋島氏の依頼に応じ、その妻女や龍造寺高房の身辺の保護に努めたので、勝茂はその恩と西本願寺に報いるために佐賀市に願正寺を建立しました。願正寺は佐賀藩内の浄土真宗の触頭と仰がれ、当然藩内の浄土真宗は本願寺派のみであります。
享保2年(1717)には長崎奉行宿泊所となり、寛政12年(1800)に本陣が置かれるまで、称念寺とともに仮本陣として使用されていました。

                                  「願正寺本堂」            「本堂欄間彫刻」

本堂の欄間には、寺院には珍しい色彩鮮やかな「二十四孝」の意匠が見事であり、座敷には「殿様御成りの間」と云われる質素な書院が残っています。また副島種臣の書本堂及び座敷に保存されています(佐賀市重要文化財)
明治維新期になると岩倉具視の子息が佐賀留学した時に投宿した寺としても有名です。参道には離蓋(勤王僧)の顕彰碑があり、寺の墓地には佐賀藩10代藩主鍋島直正の世嗣淳一郎に種痘した大石良英の墓があります。                 

        大石良英の墓」

                       

願正寺鐘楼、時の鐘
佐賀城本丸の時太鼓が藩役人の出勤時刻を知らせていたのに対し、願正寺の鐘楼は鍋島三代藩主綱茂の元禄8年(1695)から元禄9年の間に建立され、鐘は佐賀城下の一般町民に時間を知らせる鐘として、元禄9年から運用されました。その後、この時の鐘は安政元年(1854)にひびが入り、約160年間の役割を終えた後は白山の八幡社で撞くようになりました。
現在の鐘は昭和24年(1949)に鋳造されたものであり、また、現在の鐘は明和5年(1768)に再建されたもので、石垣を基礎に重厚で美しい流れの線形を保った屋根造りとなっており、江戸時代の往時を偲ぶことができます。(参考):真覚寺(伊勢町)の鐘楼(佐賀市重要文化財)

「願正寺の鐘楼」

光明寺
遍照山光明寺は浄土真宗(本願寺派)の寺院で、永禄9年(1566)に龍造寺の流れを汲む江上宗光が開基しました。本尊は阿弥陀如来です。江戸時代の初期に嘉瀬深町村より移転し、寛延元年(1748)には北向きに本堂を建立しました。その後、寛政12年(1800)に北側の野口家の屋敷が本陣とされたため、寺の本堂の向きを東側に移しました。平成29年3月に本堂の大修復が行われましたが、本堂から庫裏を結ぶ通路は昔のままの姿を残しています。
なお、第12世住職龍ヶ江良俊は佐賀の民謡「梅干」の作詞者として知られています。(一方で山口練一作詞説もある。)
料亭楊柳亭の庭には梅干の石碑があり、春の梅の咲く頃に「うめぼし祭り」が行われています。

 

      「光明寺」         「本陣跡の案内板」 

晒 橋
鍋島家は晒橋を龍家家臣の晒し場としていた。その菩提を弔わせるために、龍家縁の光明寺を近くに移転させたとの説、川に着物を晒したとの説、博奕等の軽い罪の場合、罪状を記した木札を付けらされ、衆人に晒したとの説等があります。

本陣跡
呉服元町商店街の長崎街道を南に行くと「道しるべがあり、東に折れて行くと晒橋の手前に佐賀藩本陣跡があります。本陣は大名や旗本及び幕府の役人等が使用する宿泊所です。従来、佐賀城下では願正寺と称念寺が仮本陣として利用されていましたが、寛政年間に入ると長崎奉行が佐賀城下に宿泊するケースが増えてきたため、当城下にも本格的な宿泊所の「本陣」を設ける必要がありました。
寛政12年(1800)、呉服町の御用商人野口恵助から私邸の提供を受け、本陣として拡張し、御書院・寝所・家老屯・御膳所・祐筆・医師等数多くの部屋を設けて整備しました。本陣が出来てからは願正寺、称念寺は脇本陣として使用されました。
野口家はその隣接地で穀物問屋・丸散屋(家伝薬の八味丸)の商いを行い、五人組組頭の任を受けました。-続くー

(以上 豊福 英二 記)

ーつながるさがし・循誘公民館ー