今回は視点を変えて、「ご遺族様」に、お話しをきいてみました。
ご自身は、1953年生まれ。
「ご家族様から何か戦争のお話は聞いていらっしゃいませんか」
わたしは長兄が布教先の韓国で病死、次兄は沖縄戦で戦死、きょうだいで一番下の母が寺を継ぎました。
次兄の遺族年金が妹である母にきていました。
母は戦時中は戦闘機のプロペラを作りに行っていた話をよくしていました。
※現在、すでに跡地ですが、神園にあった江崎グリコさんの進出される前、戦中は日東航機工業佐賀工場がありました。学徒動員を受け入れる軍需工場でした。
また諸富の砂糖工場(味の素さんだと思われます)が空襲で焼けた(昭和20年8月5日・佐賀空襲の日)時は、久保泉からも赤々と燃えたのが見えたそうです。
「親御さんから何か戦争に関しての教え・お話しはありませんでしたか」
親からの言葉自体はあまり覚えてはいませんが、もしかするとその下地があったのかもしれません。
学校勤めの時は平和教育に率先して取り組んでいましたよ。
『教え子を再び戦場に送るな』のスローガンも職場関係でよく耳にしたことばでしたね。