久保泉小学校玄関に掲げられている「書」一幅を紹介します

久保泉公民館

久保泉公民館

久保泉小学校玄関に掲げられている書です。

20250812145632-caf46c359fafca7936187c09872507f068c627d8.jpg「時敏(ときとし)」とあります。

落款がふたつうってあります。上は「武富時敏」、下は「唇堂」。

武富時敏(安政2年12月9日~昭和13年12月22日)の書だと思われます。

概ね、書では唇堂(しんどう)と書かれている作品が残っておりますので、時敏はレア品かもですね。

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佐賀市兵庫町「兵庫を語る会」発行(平成27年3月)の「兵庫学~未来に残したい宝物~兵庫遺産百選」の001「『兵庫』という名前」に記事がある通り、「兵庫町」の名前を名付けた人物です。

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安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれる。始祖十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し明治16年県会議員に当選する。明治20年佐賀郡長となり郡の財政を改革、明治23年国会議員となる。内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任した。又、佐賀県下の日刊新聞黎明期において「肥筑日報」を発行して縦横の論議を発表したことも有名である。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町「称念寺」にある。

「さがの歴史・文化お宝帳」より。