久保泉小学校玄関に掲げられている書です。
「時敏(ときとし)」とあります。
落款がふたつうってあります。上は「武富時敏」、下は「唇堂」。
武富時敏(安政2年12月9日~昭和13年12月22日)の書だと思われます。
概ね、書では唇堂(しんどう)と書かれている作品が残っておりますので、時敏はレア品かもですね。
佐賀市兵庫町「兵庫を語る会」発行(平成27年3月)の「兵庫学~未来に残したい宝物~兵庫遺産百選」の001「『兵庫』という名前」に記事がある通り、「兵庫町」の名前を名付けた人物です。
安政2年(1855)、佐賀藩士武富良橘の長男として生まれる。始祖十三官より十世にあたり、明治14年、九州改進党を結成し明治16年県会議員に当選する。明治20年佐賀郡長となり郡の財政を改革、明治23年国会議員となる。内閣書記官長を経て、大正3年大隈重信内閣の時、大蔵、逓信両大臣を歴任した。又、佐賀県下の日刊新聞黎明期において「肥筑日報」を発行して縦横の論議を発表したことも有名である。墓は、武富廉斎と同じく呉服元町「称念寺」にある。