森永秀寛さん(町分二)に当時のお話しを聴かせていただきました。
お話しの内容が子供たち世代にも伝わるように箇条書きにしています。
※文中に出てくるわからない言葉・単語はぜひ、地区の大人の方に尋ねてみる、ネットで検索してみる、で調べてみてください。
・森永秀寛先生 昭和5年(1930年)11月生まれの95歳。
・戦時中の当時の食事は、むぎめし、からいも、とうきび、それと豆をつぶしたようなもの。味はそれなりだったと思うけど、食事に困ることは無かった。まずい、と言うことは禁じられていたのか誰も言わなかった。
・地区の女性は竹やり訓練をよくされていた。
・佐賀中学に在学中、諸富の味の素に学徒動員(がくとどういん)、砂糖と硫安の製造工程で働いていた。
そのときの朝礼や貼り紙などで「油の一滴は血の一滴」と言われていた。
・伊賀屋駅から味の素へ通っていた時に、米軍機グラマンの大群が間近に迫り、近くの柳の木の下に急いで隠れ、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)から命からがら逃げ延びた。このときのパイロットの顔は良く見えたので、まだ覚えている。
・医師である父親は「赤紙(あかがみ)」により、宮崎県都農の部隊に医師として奉職していた。
・佐賀空襲(さがくうしゅう)の際の南方の空のこの世のものと思えない真っ赤な色は深夜だったが今でも鮮明に覚えている。※この出来事は、佐賀空襲を記録する会・作「佐賀空襲」を読んでみてください。
・今の清友病院(上分二)の近くに焼夷弾(しょういだん)が落ちたのが久保泉への唯一の爆弾投下だと思う。
・近くの大木のそばに防空壕(ぼうくうごう)があり、空襲警報が鳴った際には防空頭巾(ぼうくうずきん)などをかぶり、そこに逃げ込んでいた。
・空襲警報鳴り響くときは、照明に黒布をかぶせ、家じゅうの灯りを消し、音などたてずに静かにして警報の鳴りやむのを待っていた。
・「(昭和20年)8月15日正午より、天皇陛下より大切なお報らせがあります」との触れがあり、地区総出でラジオに耳を傾けた。そこにいる全員が「本土決戦」を覚悟していた。放送の後、大人はみんな泣いていたのを覚えている。「戦争は終わった」「日本は敗けた」と口々に言われていた。